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フランス6人組評

❖「世界の創造」雑感(2004年11月)

ダリウス・ミヨー(1892-1974)は友人のF・ジャムの紹介で、1912年に政治家で作家のP・クロ一デルと知り合い、それが縁でクローデルのプラジルヘの赴任に秘書として同行することになった。

リオデジャネイロの二年間(1917-18)は彼を豊かにし、熱帯の原生林やリオの力一ニヴァルの狂気(多彩な色やリズム等)は特に心に焼きついた。帰途ニューヨークに立ち寄り、ジャズのレコードを沢山買い込んで研究する。

1922年再ぴ渡米した時は歌手のイヴォンヌ・ジョルジュにバーレムに案内され、ニューオリンズ様式のジャズにすっかりはまってしまった。1923年のバレエ「世界の創造」にその影響は色濃く出る。「黒人詩集」を出したプレーズーサンドラールが筋を作り、画家のレジェが衣装と舞台を担当した。アフリカのダンサーが宗教的儀式の時につける様式で動物達をデザインしたのだ。ミヨーの音楽は、ジャズを多分に取り入れた彼独自の様式だが、多分にアマゾンの原生林の印象も患づいている様に見える。時々、ラプソディー・イン・ブルー(1924)やラヴェルのト調協奏曲(1931)を思わせる部分もあるが、作曲はミヨーの方が先なのだ。

ミヨーの音楽の中に見える「複調性」「生き生きとした原始的なリズム」「歌謡性」「即興性」「遊びの精神」等への好みはジャズに近い。ミヨー、ヴィーナー、ラヴェル等ジャズに影響されたフランス人は多いが、モダンジャズの人々は逆に近代フランスの作曲家達の音の使い方に影響を受けたフシがある。

フランス人は今でもジャズが好きで「フランス人の和声感がモダンジャズを豊か1こしたのだ」と誇る人もいる。パリ音楽院にジャズ科もできた。ただし彼達のジャズは、お酒落で洗練されてはいるが、黒人達の深く心をゆさぶる様な魂の叫ぴは稀薄な様に私には思える。

いくつかの「世界の創造」を聞いた。ミヨーが1932年にパリのソリスト達を指揮した録音がある。音は悪いが私の好きな演奏である。オ一ボエもサックスもトランペットも弦バスも皆生々しく暖かく、目分の言葉でしゃべっている。フランスなまりにやや崩したような、素敵な演奏。

1974年にミヨーが亡くなった時、私は留学生としてパリにいた。バーンスタインがパリ管を振ってミヨー追悼のコンサートをしたがすばらしかった。わかりやすいフランス語で、自分が如何にミヨーを敬愛していたかを語り(2人ともユダヤ人だ)客席のミヨー未亡人にこのコンサートを捧げますと言って、「世界の創造」がはじまった。線のない表現、明確でビートの効いたリズム、深い生命の叫ぴが伝わってくる様な名演だった。

1989年にマリウス・コンスタンが日本に来て、小管弦楽を振り、神武夏子(こうたけ なつこ)さんがピアノをひいた演奏もよかった。コンスタン氏は私の恩師であるが、ミヨーの弟子で、良い友人でもあった。やや現代的な醒めた意識とリズム感で、造型的な演奏だったと思うが、亡き師への思いがひしひしと伝わってきた。

最後に1992年2月12日、私が国立音大のメンバーを指揮して日暮里のホールでやった「世界の創造」がある。記録的な豪雪で全て鉄道がとまり、どうして行けたのか出演者のみ何とか集まり、客のほとんどいないホールで舞踏家の斉藤淳子氏が踊り、外の大雪にもかかわらず、ミヨーの音楽は熱く鳴った。その直後詩人の藤富保男氏と俳人の星野氏、踊りの斉藤氏と、私のピアノでやった即興の「名月や」も非常に楽しかった。

山口博史(作曲家)

❖ミヨーとプーランクにまつわって

ダリウス・ミヨーの息子さんにまた会うこととなった。東京を出る前にミヨーの似顔画を描いた。顎が二段になっていて丸顔。高血圧型肥満。蝶ネクタイをしている写真が多い。本やら写真を参考に試作面を何枚か破いた後、これならという正面をむいたミヨーの顔ができた。これを持って行こう。ところでもう一つ持って行くものがある。今は亡き黛敏郎氏がミヨーの未亡人と対談しているヴィデオである。それをダビングして彼にプレゼントしようと決めていた。ヴィデオの方はヨーロッバのバル方式にダビンクして、似顔画の方は折りまげないようにして飛行機に乗せた。

ミヨーの息子はダニエル。画家。彼と同じ画廊で展覧会をしたことがある。しかも小さい図録までもらっている。彼にまた会えるのが楽しみである。

画廊はバリの11区。メトロのヴォルテール駅から五分のところ。今年も日本のヴィジュアル・ポエトリー展がひらかれた。タ方のオープニンクのレセプション-小柄ながら目の大きいダニエルが現われた。やあ、久し振り、お元気で…と挨拶のあと雑談。ヴィデオを渡す。そうですか、日本のテレビに母が出ていたんですか。

ここまではよい。おそるおそるあんたのオヤジの似顔画を描いたんだが見てくれますか。A5判くらいの小さな紙一枚。

彼は手に取り眺めること10秒。いや5秒だったかもしれない。よくできているね。だが鼻のこの辺がちょっと違うね、と指さした。そう言われてもその場で修正できないし…と思うやいなや、彼はサッとぼくの似顔画作品を持っていた本の間に蔵めてしまった。あれれ…。その絵を使いたいんですが…とは言えず、ポカン。

彼はさっと踵をかえし画廊の中の絵の作品を見てまわっている。

というわけで、ぽくは東京にもどってまたミヨーの顔の描き直し。横むきの顔に描きかえたのである。

さて、ふたたぴダニエルとワインを飲みながら、プーランクの墓はどこにありますか。さあ?知りません、が返ってきた。ダメだ。オープニンクの参会者の中に、ソプラノ奈良ゆみさんや、作家で翻訳家の飛幡祐規さんの顔もみえた。奈良さんなら分かるだろうと、プーランクの墓を尋ねた。分かりませんが、九十歳をこえた知己のフランス人のおぱあさんに訊ねてみましょう、とのこと。

何と九十歳をこえた女性――ほくはあとで気付いたが、オルネラ・ヴォルタ女史だとにらんだ。そして数日後、ほくの泊まっているアバートに奈良さんから電話。ぺ一ル・ラシェーズとのこと。すぐ翌日行ってみた。

ショバン・ロッシー二、ピアフ、アポリネール、モンタンなどの墓にまじってプーランクの墓の位置がしるしてある。ここはバリ一の広さの墓地である。歩いた。けれど分らない。丘陵になっている。上へ斜めに、またおりて探した。もうやめて、この辺という所だけ写真にしておこうと思ったが、執念に火が付いた。また復と探彷徨と探索。目だけ光る。ついに発見。神武夏子さんのための唯一の土産話ができた。

墓というと地に平たく石が置いてあるのと、霊廟式に建てられた墓がある。プーランクのは後者であった。この人は裕福な家柄育ちなので、こういう廟室になっているのだろうか。特に大きくはない。人間一人が立って入れる守衛所のような感じでもある。正面にガラス扉。「牝鹿」の声でもするのかと、不謹慎にも中をのぞいてみた。戸口の前には最近詣でた人が添えたのか白い花。

さらに晩年のほほえんでいる例の面長の顔写真が、写真立てに入れて飾ってあった。

額の汗を撫でるように一吹きの風が流れた。バリの三月はまだ冷たかった。

藤富保男(詩人)

❖プーランク讃

プーランクは1963年1月バリのリュクサンプール公園の脇にあるメティシス通りの自宅で死去した。11年後、バリ留学中の私はそのすく.近くに越し、6年住んだ。私の師 マリウス.コンスタンがプーランクの親友だった為でもあろう、彼は「大作曲家」というよりもっと身近で、「御近所にいたおじさん」の様だ。しかしこの「おじさん」は、実は大変偉い人だったらしいと、近頃改めて見直している。

プーランクは1899年パリ生まれ。1915年に名ビアニスト、R.ヴィエニスに師事するとビアノも上達し、サティやオーリックに紹介されて交友の輪も広がった。1917年「黒人狂詩曲」1918年「4手のためのソナタ」1919年「動物詩集」と才気あふれる作品を発表し、1920年には「フランス6人組」の一人として世に出てしまう。作曲の専門教育も受けぬ素人が才能だけで有名になってしまったのだ。彼は翌21年から名教師ケクランについていろいろな技法を学ぴ、ディアギレフの為に書いたバレエ「牝鹿」(1924年)によって名実共に大作曲家の仲間入りをする。1963年の死まで、後はあらゆる分野に数多くの傑作を残した。

歌曲作曲家としては特にフォーレやドビュッシーに継ぐ、真の大家で、すべての時期にわたり150曲近い曲を残している。詩や言葉の響きへの深い洞察、ビアノ伴奏書法の多彩さや、配慮の細やかさは比類がない。ビアノ曲は幾分地味だが、機智に富み、「ナゼルの夜」、即興曲他、珠玉の小品が多い。室内楽も重要な分野で、11曲全て良いが、トリオ(1926年) 6重奏曲(1939年) 晩年の日(1957年) ob(1962年) cl(1962年)のための各ソナタ等、特に管楽器の扱いが見事だ。5つの協奏曲と2曲のバレエ、3つのオベラ(「ティレジアスの乳房」「カルメル派修道女の対話」「人間の声」)も全て第一級の作品。動きと色彩感覚の豊かな管弦楽法への評価も高い。

さらに私にとって最も感動的に思えるのは、後期の多くの宗教曲で、スターバートマーテル(1950年) グローリア(1959年)他、単純だが新鮮で無駄のない表現、何より真摯な宗教的感情がすぱらしい。

難解で、無調的傾向の強い20世紀音楽の中で彼は頑固に、明解な旋律と和声による調性音楽を書き続けた。 ラモーや、クープランの古典的精神を受け継ぎ、大好きなモ一ツァルトのバロディーも多いが、それはいつも「彼の言葉」になっていて新鮮である。

一方感受性豊かな20歳前後の時期、ベルエポックのバリで多くの分野の芸術家達と交流し刺激を受けたことは幸運であり、当時の見学(機智、率直さ、美食家的趣味)や素敵なダダ的精神は一生持ち続けた。(3つのオペラを見よ。)

こうした精神の革新性と作曲技法上の保守性の共存、又初期の不良少年の様な自由奔放さと、後期の宗教曲に見られる聖人の様な深い敬虔な感情の共存、それらが彼の不思議な魅力だろう。そして何より音楽自体の豊かさと美しさによって彼の死後もその音楽はますます評価され、愛され続けている。1999年、生誕100年を迎えた。

山口博史(作曲家)

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